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ルカによる福音書(その冒頭部分から) [ルカによる福音書]

使徒パウロと共に宣教旅行した医師ルカによって書かれたとされる福音書である。ルカはイエスの活動を記録し(自分の名の付され)た「福音書」と(自分も含む)イエスの弟子たちの活動を記録した「使徒行伝」の筆者とされている。

それゆえ、それら二つの記録を読めば、イエスの誕生からずっとその死まで、そして、12使徒をはじめイエスの弟子たちがクリスチャンとして組織されて後、どのように活動していったかを知ることができる。

また、今日的な意義として、それらを読むなら、クリスチャンと呼ばれ(称され)る人たちの本来あるべき姿(活動の在り方)をよく理解できる。その記述に照らしてみるならば、ホンモノとニセモノの違いも分かる。

「ルカによる福音書」も「使徒行伝」も、ルカの書き送った私信のようである。書き送られたのはテオピロという人物。「閣下」という敬称が付いている。初めて外国人としてクリスチャンになったのはコルネリオというローマ人の士官であったというから、テオピロも同様な立場だったのかもしれない。いずれにせよ、外国人でありクリスチャンではない人物に、信仰をもつように説き勧める文書と考えていい。つまり、それは今日的に言うならば、一般の日本人にとっても分かりやすく有用な内容を備えていると考えることができる。

その第1章冒頭部分は以下のように始まる。


口語訳聖書
1:1わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、 1:2御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、 1:3テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。 1:4すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html


新世界約聖書
私たちが全く信じている出来事を1つの記述にまとめることに,多くの人が取り組んできました。 2 最初からの目撃証人で音信を広めた人々も,そうした出来事を私たちに伝えました。 3 私も,全てのことを初めから綿密に調べましたので,テオフィロ閣下,あなたに順序立てて書いてお伝えすることにしました。 4 聞いて学ばれた事柄の確かさを十分に知っていただくためです。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/42/1#study=discover


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マルコ16章(女性たちの活躍 / 終わり方2種) [マルコ]

この16章も女性たちの活躍が目立つ。先の15章のイエスが息を引き取るところで、次の記述があった。

15:40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。 15:41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

多くの女性がイエスに仕えていた様子がわかる。その中にはマグダラのマリアのように名前があげられている女性もいる。

そして、16章は次のように始まる。

16:1さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 16:2そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。

「そして、16章は次のように終わる」と書きたいところなのだが、「マルコによる福音書」には二つの終わり方があるとされている。長い終りと短い終りである。

『口語訳聖書』を見ると、16章は20節まで記述されているが、注意して見ると 9節から20節は括弧〔 ]で括られている。『新改訳聖書(注解・索引・チェーン式引照付)』も同様に20節まで記述されてはいるが、9節から20節に関して次のような脚注が付いている。

9-20 写本上の証拠から、ニ世紀になって追加された文章であることが明らかである。他の三福音書の存在を前提とし、それらの復活物語との調和をはかっている。・・後略・・

『新世界訳聖書』のマルコ16章は8節までで終わり、それ以降は記述されない。そして8節の言葉に関して、次の脚注が出ている。

マルコ 16:8 恐れていたのである: マルコの結びに関する入手できる最初期の幾つかの写本によれば,この福音書は8節の言葉で終わっている。その終わり方はあまりに唐突で元々そのようだったとは思えないと主張する人がいる。しかし,マルコの全体的に簡潔なスタイルを考えると,必ずしもそうは言えない。また,4世紀の学者ヒエロニムスとエウセビオスは,その信ぴょう性のある記録が「恐れていたのである」という言葉で終わっていることを示している。・・後略・・

上記の脚注ふたつを考慮すると、

「そして、次のように終わる」

16:8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

と書いていいことになる。当方の個人的な印象からいっても、テンポのいいマルコの記述スタイルからいくと、やはり短い終わり方で「これでいいのだ」と思うのである。


口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 16章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/16#study=discover


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マルコ15章(ローマ人士官 / アリマタヤのヨセフ) [マルコ]

この章では捕縛されたイエスがローマ総督ポンテオ・ピラトの前に引き出されたときのイエスとピラトとのやりとり、宗教指導者や群衆の反応が記される。その後、イエスが刑場であるゴルゴタへ向かう場面、処刑される様子が示される。

ここに処刑を担当した役人が出てくる。口語訳では「百卒長」と記されている。ローマ人の士官である。その「百卒長」のひと言が出ている。15章39節である。

「まことに、この人は神の子であった」

前に「マタイによる福音書」のところでも記したが、むかしキリストの伝記映画を見た。オモシロイことにイエス役の俳優の名前を憶えていない。有名な俳優ではなかったように思う。ところが、この「百卒長」の役を西部劇の大スターであるジョン・ウェインが演じていた。ローマ士官のヘルメットをかぶって顔もやっと識別できる程のロングショットで、言ったせりふはこの一言だけだったように覚えている。大スターがたった一言。「まことに、この人は神の子であった」。それだけに印象に残る場面だった。

この処刑の場面の記述でイエスのまわりにいた弟子たちは女性だけである。すくなくとも名前のでているのは女性だけである。しかし、「ヨハネの福音書」をみると、その書いた当人である使徒ヨハネも近くにいたことがわかる。そして、イエスの母マリアもいた。そこでは、イエスが使徒ヨハネに自分の母親マリアの世話を委託している。息も絶え絶えの中、死にゆく人が弟子に母親の世話を託す。イエスとヨハネとは親戚であったと考えられるし、当時イエスの実の兄弟はまだイエスの弟子になっていなかったから、弟子であるヨハネに母親を託すのがふさわしいとイエスは考えたのだろう。だから、そういうわけで他にもイエスの男性の弟子たちもイエスの処刑を見ていたにちがいない。ただ、それをマルコは書き残していないだけなのだろう。並行記述のおもしろいところである。

15:39イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 15:40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。 15:41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

そして、このあと、アリマタヤのヨセフが登場してイエスの死体をピラトから引き取って埋葬する。ヨセフは「神の国を待ち望んでいる人」であったが、この時までずっとイエスへの信仰を ‟公に” することを怖れていた。周囲からどのように思われ、どのように扱われるかを知っていればなおさらである。だが、イエスの犠牲の死を見て勇気を奮い立たされたのだろう。自分がどのような者かを明らかにする行動をとる。その場面は以下のように記されている。

15:42さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、 15:43アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。 15:44ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。 15:45そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。 15:46そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。 15:47マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。口語訳

42 さて,すでに午後遅くで,しかも準備の日,つまり安息日の前日だったので, 43 ユダヤ人の最高法廷の評判の良い一員であるアリマタヤのヨセフがやって来て,勇気を出してピラトの前に行き,イエスの体を頂きたいと願い出た。自らも神の王国を待つ人であった。 44 しかしピラトは,イエスがもう死んだのだろうかと気になり,士官を呼び寄せて,死んだかどうかを尋ねた。 45 こうして,士官に確かめた上で,遺体をヨセフに与えることにした。 46 ヨセフは上等の亜麻布を買い,イエスを下ろしてその布に包み,岩をくりぬいた墓に葬った。そして,墓の入り口に石を転がしておいた。 47 マリア・マグダレネと,ヨセの母親マリアは,イエスが葬られた所を見つめていた。新世界訳

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 15章
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マルコ 14章(ミンナおんなじ人間だ) [マルコ]

イエスが裏切られるところが記されている。イエスは、弟子のひとりユダ・イスカリオテによって宗教指導者たちに引き渡される。

イエスと共にそれまで生活してその言動を見ながら、ユダはよく裏切ることなどできたと思う。「神の子」である証拠は明白であったわけだから不思議である。

他の弟子たちはその逆である。イエスのために死ぬことも辞さないという態度を示す。

14:27そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。 14:28しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 14:29するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。 14:30イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。 14:31ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。

弟子たちはみな(とりわけペテロが先頭に立って)「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても・・」などと声高に言う。そう言いながら、次のようなことになる。

14:32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 14:33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、 14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 14:35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 14:37それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。 14:38誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 14:39また離れて行って同じ言葉で祈られた。 14:40またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。 14:41三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 14:42立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

一緒に死ぬ覚悟があると言っていながら、弟子たちは誰一人としてイエスと一緒に祈りのために目覚めていることができなかった。イエスの期待を裏切るつもりなど全然なかっただろうが、実際には裏切ってしまう。ここを読むとミンナおなじく弱い人間だなあと思う。

さらにペテロについてはイエスが先に言っていたことがそのとおりになる。ペテロはイエスが捕縛されたのちもずっとイエスについて行った。だが、次のようになる。

14:66ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、 14:67ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 14:68するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。 14:69ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。 14:70ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。 14:71しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。 14:72するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

ここを読むとまた、ペテロもおんなじ人間だといつも思うのである。

イエスの言われたとおりに弟子たち「羊は散らされ」、主人の期待を裏切ってしまった。それでも、イエスは復活した後、弟子たちに会い、彼らをゆるす。

学べることは、人間は互いにゆるしを必要とする弱い存在であるということだ。


71 しかしペテロは,「あなたたちが言っている人など知らない」と言い,うそなら神罰を受けてもいいと誓い始めた。 72 すぐに,おんどりが2度目に鳴いた。ペテロは,「おんどりが2度鳴く前に,あなたは3度,私を知らないと言います」とイエスから言われたことを思い出し,泣き崩れた。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 14章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/14#study=discover




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マルコ13章(「世の終り」と地球) [マルコ]

このマルコ13章はマタイ24、25章の並行記述になる。マルコではマタイと異なり「世の終り」という言葉が用いられていない。とはいえ、この部分を読むときに、地球の滅びをイメージしたり、ハルマゲドンを思い浮かべる方がいる。

しかし嬉しいことに、聖書は地球が滅びることはナイと保証している。聖書というより神様の保証である。

たとえば、「伝道の書」1章4節には次のようにある。
口語訳
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
新世界訳
4 世代は去り,次の世代となる。しかし地球は永遠に存続する。


さらに、神様が地球を創造した目的について述べる聖句(イザヤ書45章18節)には次のようにある。
口語訳
45:18天を創造された主、すなわち神であって また地をも造り成し、これを堅くし、 いたずらにこれを創造されず、 これを人のすみかに造られた主はこう言われる、 「わたしは主である、わたしのほかに神はない
新世界訳
18 エホバは天の創造者,真の神であり,地を形作った方,それを造ってしっかりと据えた方。意味もなく創造したのではなく,人を住まわせるために形作った方。その方がこう言う。「私がエホバであり,ほかにはいない。

地球は永続するもので、その地球は「人のすみか」「人を住まわせるために形作」られたのであれば、地球が永遠であるように、そこに住む人も永遠にいるのであろう、と考えることができる。

では、聖書でいう「世の終り」に滅びるものは何かといえば、地球に住むに値しないと見なされた人々である。地球の創造者は、いわば地球の大家さんであるから、貸家を住めないヒドイ状態にして平気な住人を追い出す権限をもつ。

そのことは「ヨハネの黙示録(啓示)」11章に次のように記されている。神様が地球全体に対する支配権(王権)をイエスを通して行使するようになったときのことについての記述だが・・

口語訳
11:16そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、 11:17「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。 大いなる御力をふるって支配なさったことを、 感謝します。 11:18諸国民は怒り狂いましたが、 あなたも怒りをあらわされました。 そして、死人をさばき、あなたの僕なる 預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、 すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、 地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
新世界訳
16 そして,神の前で自分たちの座に座っていた24人の長老が,ひれ伏して神を崇拝し, 17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能の神エホバ,私たちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大きな力をもって,王として治め始められたからです。 18 国々は憤り,あなたご自身も憤りを表し,定めの時が来ました。それは,死んだ人々が裁かれる時であり,あなたの奴隷である預言者たち,聖なる人たち,あなたの名を畏れる人たちが,小さな者も大きな者も報われる時であり,地を損なっている人々が滅ぼされる時です」。

ここで滅ぼされるのは「地を滅ぼす者」「地を損なっている人々」とある。すべての人が滅びるわけではないし、逆に報いを与えられる人々のいることも分かる。

滅びに値するかどうかは突然に決まったり、根拠ナシに決められるわけではないので安心できる。神様は、事前に警告を(伝道というカタチで)人類に与えてこられた。ご自分にふさわしい者となるよう、地球に生き続けるに値する者であることを示すよう、西暦第一世紀から人類に働きかけている。キリストの弟子たちを通してである。それは今も行われている。要は、それに答え応じるか否かである。

この「ヨハネの黙示録(啓示)」の上の引用の後(その16章で)「ハルマゲドン」について述べられているが、それはここでは触れない。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 13章
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マルコ12章(貧しいやもめの寄付) [マルコ]

12:41イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。 12:42ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。 12:43そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 12:44みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

世界一有名な名もないやもめのことが出ている。

聖書に自分のことが記されていると知ったなら、そして、世界中で読まれて有名になっていると知ったなら復活してきてさぞ驚くことだろう。

イエスの目の付けどころはフツウとは異なることを知ることのできる聖句だ。多くの人は注目されたくて、多くのお金を賽銭箱に入れていたが、イエスの注目するところとなったのはわずかな硬貨を入れたやもめだった。

イエスと同様、神様の目のつけどころも、金額の多寡にない。多い少ないではない。

昨日、ダビデが油注がれて王として任命されたことについて記したが、その記述がでているサムエル記第一の書には、神様の注目するものが何か示されている。

王として任命する人物に油を注ぐように神様は、預言者サムエルをエッサイという人物の家に遣わす。その息子たちがサムエルの前に引き出される。神様から油を注ぐようにサムエルが命じられたのは結局、末息子のダビデであったのだが、その人選の理由が記されている。すこし長いが引用する。

16:6彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。 16:7しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。 16:8そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。 16:9エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。 16:10エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。 16:11サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。 16:12そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。 16:13サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。

口語訳聖書 マルコによる福音書
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新世界訳聖書 マルコによる福音書 12章
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マルコによる福音書 11章(変な命令? / 王はロバに乗って) [マルコ]

11:1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、 11:2「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 11:3もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。 11:4そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。 11:5すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。 11:6弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。

この部分を読むと、いつも変だなと思う。

イエスの命じ方が変わっていると思うのである。

ふつうであれば、ロバがつないであるのを見たなら、そして、そこに人が立っていたなら、「このロバはどなたのロバでしょうか」と尋ねて、所有者がわかったなら、その人に近づいて、これこれの理由で必要としますので、どうぞお貸しねがえませんか」という話になるだろう。

まず繋いであるのをほどき始めて、何をしているのかと尋ねられたら、実は主人が必要なので・・と言うのでは、泥棒かと怪しまれても仕方がない。そんな思いをしながらロープをほどくのは心理的にたいへんだったろうと思うし、弟子たちにそのような負担を負わせていいものだろうか・・などと考えてしまうのである。

とはいえ、聖書の記述は上記のようなものである。ということは、イエスは弟子たちに、自分の言う通りに物事が展開するということを示したかったのだろうと思うほかにない。事実そのとおりに成ったわけだが、自分の言うことはそのとおりになるという確信をイエスは持たせたかったのだろう。

ロバは貴重な財産だった。ロバというと当方は、ダビデの前のイスラエルの王サウルを思いだす。サウルは父親から預けられたロバが行方不明になってしまい、それを何日も探す。それでも見出せないので、預言者サムエルに会うことにする。その時、サムエルは神様からのお告げに従って、サウルの頭に油を注ぐ。油を注ぐのは任命の象徴である。そうすることで、サウルは任命された王になる。王であると同時に「油を注がれた者」になったことになる。つまり、メシアになった。

サウルは油を注がれ、ダビデもおなじくサムエルから油を注がれ任命された王となった。そのことはサムエル記に記されている。

イエスの場合は、文字通りの油ではなく聖霊によって任命された。聖霊は神様の力、活動力を示す。イエスは直接、神様から任命された。それは、バプテスマのヨハネによってヨルダン川で浸礼を受けて水から上がられた後である。そこからイエスはメシア、キリストとなった。

ダビデの子孫であり、その血統を受け継ぐイエスは聖書で予言されたユダヤ人の王になる資格の持ち主だった。王になる権利の所有者なのである。

そして王はロバに乗ってやってくるという予言があった。そのこともイエスに成就(実現)した。

11:7そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。 11:8すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。 11:9そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、 「ホサナ、 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。 11:10今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。 いと高き所に、ホサナ」。

同じところを新世界訳聖書では次のように記している。

7 イエスのもとに子ロバが連れてこられた。弟子たちはその上に自分の外衣を掛け,イエスが乗った。 8 また,多くの人は自分の外衣を道路に敷き,ほかの人たちは野原から葉の付いた枝を切り落としてきて,敷いた。 9 前を行く人も後に続く人もこう叫び続けた。「お救いください,この方を! エホバの名によって来る方が祝福されますように! 10 間もなく来る,私たちの父ダビデの王国が祝福されますように! お救いください,この上なく高い所で!」

口語訳聖書 マルコによる福音書
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新世界訳聖書 マルコによる福音書 11章
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マルコによる福音書 10章(マルコとマタイの違い) [マルコ]

マタイによる福音書からずっと読んでこられた方は、同じことが書かれていると思うにちがいない。いわゆる「並行記述」である。並行記述をとおして福音書筆者たちの個性のちがいを知ることができる。記述のチガイを比較するなら、イエスの人間性やたとえの意味を別の観点からより深く知ることもできる。だから、ちがいを楽しむべきであって、退けるべきではない。

この章の記述で、マルコとマタイの記述のチガイがはっきり分かる点をひとつだけ見てみたい。

以下、赤文字はマルコ10章からの引用、青文字はマタイ20章からの引用。マタイでは20章になって出てくる記述をマルコはその半分の章で取り上げているのだと知るだけでも面白い。やはり、マルコはすべてにおいてテンポが速い。内容の理解を損なわない余分と思える点はどんどん省略している感じである。

今、うっかり「半分」と書いたが、マルコとマタイでは全体を構成する章の数が異なる。単純に「半分」とはいえない。それで、ちなみにツマラナイ計算と言われてしまいそうだが、計算してみた。

マルコは16章までだから、10÷16=0.625
マタイは28章までだから、20÷28=0.714

こう計算すると、全体の6割強、7割強で「並行記述」が出てくることになる。その差は0.089。1割に満たない。それほど大きな差はないことになる。それでも、すべてを時系列に書いているとするなら、やはり幾分マルコの記述の方が早い段階で記されていることになると言っていいように思う。

10:35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。 10:36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。 10:37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 10:38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 10:39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。 10:40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。 10:41十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。


20:20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。 20:21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。 20:22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。 20:23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。 20:24十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 10章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/10#study=discover





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マルコによる福音書 9章(「地獄」ってあるの?) [マルコ]

この章で、イエスが「地獄」について語っている。それをそのまま信じる人がいる。「地獄は実在する」と。「責め苦の場所はある」と。

しかし、イエスの教えの特徴は何だっただろうか? そう、「たとえ」である。

つまり、文字通りではない。そのことに留意しないといけない。

そうでないと、聖書全体の理解から外れることになる。

聖書で、死者の状態については、伝道の書 9章に記されている。

9:5生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。 9:6その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、・・

死んだ者には意識がなく、感情もなにも無くなるというのが死者の状態についての聖書の教えである。「地獄」の責め苦があるとしたら、それは「伝道の書」に示された考えに反するものとなる。また、死んだ後に意識があるとすれば(それは、肉体は滅んでも魂は残るという)「霊魂不滅」が聖書の教えということになってしまう。そうなると「伝道の書」の考えに反するものというだけでなく、聖書の重要な教えである死者の復活を無価値なものとしてしまう。要するに、「地獄の責め苦」は聖書全体の教えと調和しない考えなのである。

イエスが「地獄」をたとえに用いて教えたかったこと、そのようにしてまで伝えたかったことは「神の国に入る」妨げになるものはすべて排除するよう最善を尽くせ、ということである。

この「地獄」について、たいへん古い聖書注解書になるが『新約聖書略解(日本基督教団出版局発行1977年増訂新版)』のマルコ9章の部分に、次のように記されている。

《地獄はエルサレムの西南にあるゲヘナの谷のことで、かつてモレク礼拝が行われたところであったが、のちにヨシュアによって汚され(列王下23:10)、廃物を焼くところとなり、未来の刑罰の行われる場所の象徴的名前となった(p142)》

モレクという異教の神の崇拝が行われた場所(=ゲヘナの谷)を、ユダの善良な王であったヨシュアは偶像崇拝にもはや用いられないようにする。そして後、ゴミ焼却場としてしまう。そこにはイオウがまかれて火が燃やされ、犯罪者の死体も投棄されたという。そのようにしてゲヘナは、滅びを示す象徴的な場所となった。

イエスは聞く人々にとってイメージしやすい具体的の名前ゲヘナを取り上げて、たとえとして語ったのだが、それを後に「地獄」と訳出したことが、責め苦の場所としての「地獄」がアル:存在するということになってしまった。

聖書の神様は愛の神である。この点で「新約の神は愛の神で旧約の神はそうでない」という向きもあるが、聖書の神様は一貫して愛の神である。いくら悪いことをしたからといって、子供の手をストーブに押し当てる親はいない。人間を創造した神様も同じである。ローマ 6:23にあるように「罪の報いは死(無意識・無存在)」であって永遠の責め苦などではない。責め苦の場所としての「地獄」の教えが流布していった背景には、「地獄」への怖れによって人々を服従させようという宗教指導者など為政者たちの思惑がある。それによって、愛の神が誤解されることになってしまった。

以下、マルコ9章の「地獄」についての部分を、「地獄」と訳出した1954年の口語訳聖書と「ゲヘナ」と訳出した2019年の「新世界訳聖書」から引用する。

9:43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。〔 9:44地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕 9:45もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。〔 9:46地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕 9:47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。 9:48地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

43 もし一方の手があなたの信仰の妨げとなるなら,それを切り捨てなさい。片方の手を失って命を得る方が,両手があるままゲヘナ*に,消えない火の中に行くよりは,よいのです+。 44* ― 45 また,もし一方の足があなたの信仰の妨げとなるなら,それを切り捨てなさい。片方の足を失って命を得る方が,両足があるままゲヘナに投げ込まれるよりは,よいのです+。 46* ― 47 また,もし一方の目があなたの信仰の妨げとなるなら,それを捨て去りなさい+。片方の目を失って神の王国に入る方が,両目があるままゲヘナに投げ込まれるよりは,よいのです+。 48 ゲヘナでは,うじは死なず,火は消えません+。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 9章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/9#study=discover




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マルコによる福音書 8章(パンのことを心配する) [マルコ]

イエスの弟子たちはパンの心配をしなくていいことが分かる。働かなくていいということではない。心配は無用であるということである。だいたい誰もがその点で心配するわけだが、心配するだけ損である。気持ちが疲弊するだけである。神様はご覧になっている。ご自分に仕える者が空腹で亡くなることなど決してお許しにならない。そのことは、神に仕える者たちが、これまで経験してきたことから理解できる。その危うい経験を乗り越えてきた(神の支えを経験してきた)人ほど、余計な心配をしなくなる。

マルコの記述によると、まだ12使徒たちは経験が足らなかったようだ。イエスの大きな奇蹟を見てきたにも関わらず、心配している。それで、弟子たちは、だいぶ厳しくイエスから諭されている。ほぼ叱責にちかい。それほど言われないと分からない分野なのだと思う。

8:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。 8:15そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。 8:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。8:17イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。 8:18目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。 8:19五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。 8:20「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。 8:21そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。

日常生活の必要物についてあれこれ心配するのが人の常である。イエスの有名なたとえに次のものがある。以下、マタイによる福音書の6章から引用する。

6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

冒頭の25節にある「思いわずらうな」をある英語翻訳では、25 “On this account I say to you: Stop being anxious about your lives as to what you will eat or what you will drink, or about your bodies as to what you will wear. と、始まる。

Stop being anxious ~である。

その点での心配を止められないのが人の常なのだ。それだからこそ

Stop being anxious ~なのである。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 8章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/8#study=discover





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