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マタイ26章(「過ぎ越し」の日に)

イエスは人間として生まれたが、それ以前から命があった。

当該ブログをはじめて目にする方は「なんだそれ?」と思われるにちがいない。以下、愚かしいと感じる方もいらっしゃることと思うが、「聖書ではそのように言っているのだな」と、とりあえず読んでいただければ嬉しい。

イエスは、本来天使のひとり(ミカエル)であり、神はその命を天の領域から地上に移された。神は、処女マリアのからだ(胎)を借りて(科学の力によって生殖技術の進んだ今日であれば、受け入れがたいものではないと思うが)完全な罪のない人間として、イエスを生み出された。その後、イエスは大工ヨセフの息子として決して裕福ではない家族の長男として成長する。それはイエスにとって不完全で罪のもとに生きる人間の労苦というものを身近な人々をとおして経験する機会となる。

なぜ、今回このようなことから書き出したかというと、イエスが地上に来た(神から遣わされた)ことには目的があることを記したかったのだ。

それは、贖罪(ショクザイ)である。罪を贖(あがな)うことである。罪を帳消しにすることである。
そのためには犠牲が必要だった。アダムが失った完全で罪のない命に相当する値打ちのある犠牲が必要だった。その点で、不完全なアダムの血を直接受け継いでいない人間、完全で罪のない命をもつ人間が必要とされた。それで、神は天使のひとり(ミカエル)を地上に遣わす。マリアをとおして生まれイエスと名付けられた完全で罪のない人物は、みずからを犠牲とすることになる。そうすることで古代イスラエルに与えられた罪のゆるしを得るための律法(であって復讐を正当化するための言葉ではないのだが、誤ってそのように解釈されている)「目には目、歯には歯」「命には命」をまっとうすることになる。完全で罪のないアダムの命に相当するものを自ら備えることによってである。

エデンで罪をおかし(神に反逆し)た結果、アダムは死んだ。エデンにおいて神が与えた唯一の命令を守っていさえすれば永遠に死ぬことはなかった。それが死ぬようになった。罪を犯したことによってである。神が唯一ご自分の権限のもとに置かれた善悪を定める権利を、本来神だけがもつべき権利を自分のものとし奪い取ったからである。それ以降、人間は、自分勝手な善悪の基準を定めては、「自分(たち)は正しくあなた(たち)は間違っている」と互いに言い合い、争いあってきた。今日の世界情勢をみれば、エデンでの出来事を単なる神話であるとして笑うことなどできないはずだ。

アダムとエバは死んだが、神はアダムの子孫に憐れみを示された。生れてくることを許されたのである。不完全で、受け継いだ罪のゆえに死ぬ定めのもとにはあるものの、生まれて人生を楽しむ機会を与えられた。

そして、将来、再び楽園となる地球で永遠に生きる機会を得ることができるように、アダムの子孫たちのために、神は物事を取り決められた。エデンでの反逆の直後に、神は将来人類を罪と死から解放するキリストの到来について予告された(創世記3:15)。その後、神はひとりの人物に目を留め、その人物をとおしてキリストが生み出されるようにされた。その人物とはアブラハムである。しかし、その役割を確かなものとするためにアブラハムは試される必要があった。

聖書中には、神とキリストとの関係を想起させる出来事がしめされている。それはアブラハムと息子イサクとの関係だ。神はアブラハムに、ひとり息子で家督相続人であるイサクを殺すように命じる。これは試練だったはずである。しかし、アブラハムは、従おうとする。たとえ死んだとしても、自分の子イサクをとおしてキリストを誕生させると既に神は約束している以上、たとえイサクを殺したとしても復活させてくださるにちがいないという信仰から、殺そうとする。そこで「待った」が入る。テスト合格である。十分に信仰をしめしたことで、将来人類全体を救う救世主が確かにアブラハムの家系からでることが神によって誓われる。そしてそれは、将来、神ご自身が、自分の独り子イエスを犠牲とし、そして復活させることを事前に示すための型となった。

そしてもう一つ意に留めたいことがある。本日考慮するマタイ26章と直接からんでくる。アブラハム の孫(ヤコブ=イスラエル)の代に、イスラエル民族は飢饉のためにエジプトに居住するようになる。最初ファラオから厚遇されていたが、後に人口が増えて厄介者あつかいになる。そして客分から奴隷としての扱いに変わる。そのの窮状から救うべくモーセが指導者として神により用いられることになる。そしてモーセはファラオと交渉し、エジプトからイスラエルを脱出させるべく尽力する。ところがファラオはそれを許さない。それで、神はやむなく災いをくだすことになる。映画『十戒』をご覧になった方など、ご存知の方にはご存知の展開である。

その10番目の災いとの関連で、神がアダムの子孫を罪から救うに際し、イエスを犠牲とすることを事前に示す型となった出来事がある。やっとこれで、本日のマタイ26章について説明する段取りができた。

「過越」(すぎこし)というものがある。モーセの時代の話に戻る。エジプトからご自分の民イスラエルを救出するに際して、頑ななファラオに災いをくだす必要が生じた。その10番目の災いはエジプトに住むすべて家族の長男を殺すというものだった。事前に神は、救われるための方法を示す。それは羊を殺してその血を家の戸柱(門柱)とその上にある横木に塗ること(神社にある鳥居のような感じになると当方は想像する)。そうすれば神はそれを見て、その家を「過ぎ越し」、その家の長男の命を保護するというものだった。エジプトのファラオをはじめ多くはそれに従わなかったために長子を失うが、従った人々の家の子どもは保護された。そのことは出エジプト記12章に記されている。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwt/2/12#study=discover

その羊の犠牲に相当するのがイエスであり、その流した血は救いのための手立てとなった。

というわけで、

26:20夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。

有名な最後の晩餐である。「過ぎ越し」を思い起こすための行事として食事がなされる。(裏切り者ユダ・イスカリオテを去らせたあと、より深い意味をもつ食事がなされるが、ここでは触れない)。

この夕方(日没)から、イエスにとって特別な一日が始まる。ユダヤ歴のニサン14日である。ユダヤ歴の一日は夕方から始まって夕方で終わる。この日はイエスにとってたいへんな一日となる。イエスの一番ながい日といえる。この日(今日の暦にしたがうなら「翌日」になってからだが)にイエスは刑柱上で殺され犠牲となることで、予言的な劇として示されてきた過ぎ越しの羊の役割を果たし、その流した血をもってアダムの失った完全な命に相当する代価を手にする。

大いなるアブラハムである神は、わが子イエスを、アダムの子孫すべてにとっての身代わりとなる犠牲とする。イエスはアブラハムの子であるイサクの役回りを果たす。そしてまた、イエスは進んで過ぎ越しの犠牲の羊の役割を果たし、その流した血はアダムの子孫すべての罪を贖う代価となる。

だいぶくどくどしい話になったが、この章は、そうした流れのなかにある。

口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

新世界訳聖書
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/26#study=discover





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