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マルコによる福音書 10章(マルコとマタイの違い) [マルコ]

マタイによる福音書からずっと読んでこられた方は、同じことが書かれていると思うにちがいない。いわゆる「並行記述」である。並行記述をとおして福音書筆者たちの個性のちがいを知ることができる。記述のチガイを比較するなら、イエスの人間性やたとえの意味を別の観点からより深く知ることもできる。だから、ちがいを楽しむべきであって、退けるべきではない。

この章の記述で、マルコとマタイの記述のチガイがはっきり分かる点をひとつだけ見てみたい。

以下、赤文字はマルコ10章からの引用、青文字はマタイ20章からの引用。マタイでは20章になって出てくる記述をマルコはその半分の章で取り上げているのだと知るだけでも面白い。やはり、マルコはすべてにおいてテンポが速い。内容の理解を損なわない余分と思える点はどんどん省略している感じである。

今、うっかり「半分」と書いたが、マルコとマタイでは全体を構成する章の数が異なる。単純に「半分」とはいえない。それで、ちなみにツマラナイ計算と言われてしまいそうだが、計算してみた。

マルコは16章までだから、10÷16=0.625
マタイは28章までだから、20÷28=0.714

こう計算すると、全体の6割強、7割強で「並行記述」が出てくることになる。その差は0.089。1割に満たない。それほど大きな差はないことになる。それでも、すべてを時系列に書いているとするなら、やはり幾分マルコの記述の方が早い段階で記されていることになると言っていいように思う。

10:35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。 10:36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。 10:37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 10:38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 10:39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。 10:40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。 10:41十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。


20:20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。 20:21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。 20:22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。 20:23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。 20:24十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 10章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/10#study=discover





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