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マルコによる福音書 3章(「安息日」に仕事/ イエスは「気が狂った」と・・) [マルコ]

3:1イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 3:2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 3:3すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 3:4人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 3:5イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 3:6パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

ここで「安息日」の問題が出てくる。安息日をめぐる争いは何度も繰り返される。安息日に仕事をしてはいけないという律法は「十戒」の一つであり、重要な決め事であったわけだが、次のように『出エジプト記』に出ている。

20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。 20:9六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

ここでいう「わざ」仕事が実際のところ何を指すかについて、当時の宗教指導者たちは細かい規定を設けていた。本来、神ご自身が意図していなかったことを「仕事」に含めて、安息日に「仕事」をする人を裁いていた。

今、このように書いていて、コロナ禍中の騒動を思いだした。警察でもナイのに警察であるかのようにふるまい、マスクをしていない人を問いただしたり命令したりしたという話を聞いている。最近では逆に、マスクをしていると近づいてきて「なんでしてるんだ」みたいなことを言う人も出てきているらしい。

もうだいぶ古い話になるが、校則を守っているかどうかを校門で見張る先生方のニュースがあった。遅刻を戒める意図で電動の校門を閉めたら生徒が挟まれて圧死したという話だったろうか。権威というものはとかく杓子定規に物事を取扱いはじめる。そうなるとロクなことはない。本来の意図、原則はなんであったかを思い起こせば、ふさわしい適用の仕方がわかるはずに思うのだが、自分の上司に認められることばかり考えたりするようになると、その顔色をうかがうばかりに、ただ命令にしたがえばいいというような物事の取扱いになる。いのちの尊さや示すべき優しさを忘れる。

だいぶ話しが長くなってしまった。失礼いたしました。

イエスは「安息日」に病人をいやすことは「仕事」ではナイと判断した。そもそもイエスは「神の子」である。そして神から遣わされて地上に来た。であれば、イエスは神を代表している。「安息日」の「わざ」仕事についても正しい理解をもっているはずである。ところが、神を代表し、スポークスマンでもあるイエスの言うことを宗教指導者たちは受け入れない。困ったものである。そして、彼らはイエスを殺そうと動き出す。バカげた話である。

イエスは多く誤解された。イエスを正しく理解しなかったのは宗教指導者ばかりではない。次のような記述もある。

3:21身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。 3:22また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、・・

イエスは「身内の者たち」から「気が狂った」と思われ、知的な面々から「ベルゼブルにとりつかれ」たと見做されている。ベルゼブルとは悪い霊者(元・天使たち)の親玉、つまり悪魔サタンのことである。

イエスの母親はマリアだが、マリアは他にも子供たちを生んでいる。後に聖書筆者になったヤコブやユダ(イスカリオテとは異なる人物)は弟たちである。だが、この時点ではイエスをキリストとして受け入れていないし「神の子」として信じてもいなかった。そればかりか「気が狂った」と見做していた。

もっとも考えてみれば、今までまじめな大工だった兄さんが、急に自分はキリスト「神の子」などと言い出し、家業を放り出して伝道など始めたなら、同族経営をしていた弟たちからすれば、それだけでもたいへん迷惑な話しである。実際のところ、弟たち「身内」がイエスを気が狂ったとみなした、その根拠について明記されてはいないが、まあそんなところであろうと同じような経験をしてきた者として思うのである。

この後母親のマリアもイエスのもとに来ている。マリアもイエスが神の子であることは認めていても、実際に信者となるのは後のことである。「預言者は郷里では受け入れられない」という言葉があるが、家族からもなかなか受け入れられない。これもまた、同じような経験をしてきた者として言えることである。

マタイ10章には次のようにある。イエスの言われたとおり、まさに、そのようになることになるのである。
10:24弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 10:25弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと(悪く)言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 10:26だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 10:27わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 3章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/3#study=discover








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