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マルコ 2章(イエスの精神態度、イエスは「医者」) [マルコ]

マルコ2章は次のように始まる。

しかし,何日か後,イエスは再びカペルナウムに入り,家にいることが知れ渡った+。 2 そして,大勢の人が集まったため,戸口の辺りにも場所がなくなった。イエスは神の言葉を語り始めた+。

ここでイエスは「家」にいたとある。イエスはガリラヤ地方のカペルナウムを拠点として活動していたようである。ガリラヤ湖のそばにある都市だ。

以前イエス・キリストの生涯を描いた映画を見たことがあるが、いつも歩いているような映画だった。弟子たちを引き連れて常に歩いているのである。

そのイエスが「家にいる」目的は何だったのだろうと思う。もちろん、書かれていないので分からないのだが、ごく自然な考えからいくと、休息を得るためだったのかなと凡人である当方は思うのである。

そうであれば、なおさらであるが、休息を得ようとしているところに人々が押しかけてくる。どんな気持ちになるだろう? スターがハワイに出かけて休息を得ようとしたら、そこにファンが押しかけてという状況に似ているように思う。たぶん、ファンサービスの必要性を心得ていたとしても、あんまりイイ心持ちはしないだろう。

ところが、イエスについてのそういう記述はない。

人びとが集るや・・

イエスは神の言葉を語り始めた

と、ある。

この時、イエスのところに押しかけた人々は、病人を治してくれというのである。そのために、家を破壊する。屋根を壊す。たいへんなお客様であった。それでも、イエスが怒ったという記述はない。人々の願いにこたえて病人を治す。驚きである。

そして、その後、

13 イエスは再び湖の岸辺に出ていった。すると群衆が集まってきたので,教え始めた。

人がいれば教える。これがイエスの宣教の態度であったことがわかる。

当時、宗教指導者たちが蔑む「収税人や罪びと」と共にイエスは食事をした。その際にも、彼らに神の言葉を教えた。

そのことで非難されたときのイエスの言葉が、次である。

2:17イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

この章のはじめで、身体的な病気の人の罪をゆるす権威をイエスが持っていることが奇跡的な癒しによって証明された。そのイエスが、自分のことを「医者」にたとえている。

いわばイエスは、身体的な癒しも、精神的な癒しもおこない、人を健全にすることのできる「医者」であった。

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 2章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/2#study=discover




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