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マルコによる福音書 11章(変な命令? / 王はロバに乗って) [マルコ]

11:1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、 11:2「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 11:3もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。 11:4そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。 11:5すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。 11:6弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。

この部分を読むと、いつも変だなと思う。

イエスの命じ方が変わっていると思うのである。

ふつうであれば、ロバがつないであるのを見たなら、そして、そこに人が立っていたなら、「このロバはどなたのロバでしょうか」と尋ねて、所有者がわかったなら、その人に近づいて、これこれの理由で必要としますので、どうぞお貸しねがえませんか」という話になるだろう。

まず繋いであるのをほどき始めて、何をしているのかと尋ねられたら、実は主人が必要なので・・と言うのでは、泥棒かと怪しまれても仕方がない。そんな思いをしながらロープをほどくのは心理的にたいへんだったろうと思うし、弟子たちにそのような負担を負わせていいものだろうか・・などと考えてしまうのである。

とはいえ、聖書の記述は上記のようなものである。ということは、イエスは弟子たちに、自分の言う通りに物事が展開するということを示したかったのだろうと思うほかにない。事実そのとおりに成ったわけだが、自分の言うことはそのとおりになるという確信をイエスは持たせたかったのだろう。

ロバは貴重な財産だった。ロバというと当方は、ダビデの前のイスラエルの王サウルを思いだす。サウルは父親から預けられたロバが行方不明になってしまい、それを何日も探す。それでも見出せないので、預言者サムエルに会うことにする。その時、サムエルは神様からのお告げに従って、サウルの頭に油を注ぐ。油を注ぐのは任命の象徴である。そうすることで、サウルは任命された王になる。王であると同時に「油を注がれた者」になったことになる。つまり、メシアになった。

サウルは油を注がれ、ダビデもおなじくサムエルから油を注がれ任命された王となった。そのことはサムエル記に記されている。

イエスの場合は、文字通りの油ではなく聖霊によって任命された。聖霊は神様の力、活動力を示す。イエスは直接、神様から任命された。それは、バプテスマのヨハネによってヨルダン川で浸礼を受けて水から上がられた後である。そこからイエスはメシア、キリストとなった。

ダビデの子孫であり、その血統を受け継ぐイエスは聖書で予言されたユダヤ人の王になる資格の持ち主だった。王になる権利の所有者なのである。

そして王はロバに乗ってやってくるという予言があった。そのこともイエスに成就(実現)した。

11:7そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。 11:8すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。 11:9そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、 「ホサナ、 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。 11:10今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。 いと高き所に、ホサナ」。

同じところを新世界訳聖書では次のように記している。

7 イエスのもとに子ロバが連れてこられた。弟子たちはその上に自分の外衣を掛け,イエスが乗った。 8 また,多くの人は自分の外衣を道路に敷き,ほかの人たちは野原から葉の付いた枝を切り落としてきて,敷いた。 9 前を行く人も後に続く人もこう叫び続けた。「お救いください,この方を! エホバの名によって来る方が祝福されますように! 10 間もなく来る,私たちの父ダビデの王国が祝福されますように! お救いください,この上なく高い所で!」

口語訳聖書 マルコによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/mark.html

新世界訳聖書 マルコによる福音書 11章
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/41/11#study=discover





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