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マルコによる福音書 7章(汚すものは内側から / 外国人) [マルコ]

人をほんとうに汚すものは何かという話である。

宗教指導者たちは身体を清い状態にしておくことの大切さを承知していた。そして、それはイスラエル人に与えられた律法にも規定されていた。だが、モーセに与えられた律法はのちに変質してしまう。律法そのものが変わったわけではなく、その解釈が変わってしまう。時間が経つにしたがっていわゆる伝言ゲームのようになってしまう。人為的に解釈が変えられもする。面白おかしくなるのならいいが、人をがんじがらめにする。自由を奪う。生活から喜びを失わせるものとなる。それは本来神様の意図したことではない。それを自分に当てはめるだけならまだしも、宗教指導者たちは、それを適用するよう一般の人々に要求する。そういう宗教指導者らの偽善をイエスは暴く。そして本当に人を汚すものは、外側からというより人間の内側から出てくるものであることを述べる。

7:20さらに(イエスは)言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 7:21すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 7:22姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 7:23これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

そのような精神態度、感情、動機を培うことのないよう、注意深くあるようイエスの弟子たちは促されたにちがいない。身体的に清くあることは大切だが、それよりもさらに思いと心を清めるよう動かされたはずである。


このあとの記述で「汚れた霊(悪くなった天使)」に憑かれた子供をもつ女性が登場する。しかも外国人(ギリシャ人)である。

当時モーセの律法下のイスラエル人は、外国人と交渉をもたなかった。そのような規定があった。外国人とは原則として婚姻関係をもたないし、同盟もしない。神の民として特別に取り分けられ、いわば「聖別」されていた。(そういうことを書くと「選民思想」であると怒る方もいる。が、そうするだけの意図、目的が当時あったのである。ここでは詳述しない)。

ところがギリシャ人の女性がイエスに近づいてくる。そもそもイエスが(天の神の領域から)地上に遣わされた最大の目的は、全人類のために「贖い」を備えることだった。次いで「神の国」による支配とその祝福について宣教:伝道することだった。しかし、この宣教に関しては専らユダヤ人に対するもので外国人に対するものではなかった。外国人への宣教は、イエスの死と復活の後に、イエスの弟子たちによって活動がなされていく。(実のところ神の目的の進展にはタイムテーブルがあって、聖書を調べるとその時間表のとおりに今日まで物事が展開してきたことを知ることができる)。外国人に神の目的が伝えられるようになった顛末は『使徒行伝:イエスの弟子たちの活動の様子について記された聖書文書』を読むと知ることができる。いま考慮している「マルコによる福音書」の次が「ルカによる福音書」、その次が「ヨハネによる福音書」、その後が『使徒行伝』である。

前置きが長くなってしまったが、そのような外国人との関係性の中で、イエスの外国人女性に示した思いやりを知っていただければ嬉しい。

7:24さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。 7:25そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。 7:26この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。 7:27イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 7:28すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。 7:29そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。 7:30そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

口語訳聖書 マルコによる福音書
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新世界訳聖書 マルコによる福音書 6章
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マルコによる福音書 6章(郷里で / ふたりずつ弟子を遣わす) [マルコ]

イエスに対する対応が、その土地によって異なったことが示されている。

一つは郷里でのこと

6:1イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。 6:2そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 6:3この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 6:4イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。 6:5そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。 6:6そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。

せっかくキリストが来ているというのに郷里ナザレの人びとは益を得られない。彼らにとってイエスはキリストというよりも昔から知っている慣れ親しんだ人物としかみなすことができなかった。「この人は大工ではないか」。「マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」

郷里の人びとは先入観に囚われていた。これまでの人間関係を中心にしてしかイエスを見ることができなかった。それで、その驚くほどの知恵や「力あるわざ」を見ながら、イエスをキリストであり「神の子」として認めることができなかった。それゆえ信仰を持ってイエスに近づくことが出来なかった。イエスもまた、そういうことで、キリストの力を示すことができなかった。いくらいい医者であっても患者が来ないことには癒すこともできない。せっかくの機会であったのに、残念なことになった。

今日でも、食わず嫌いというものがある。直接キリストがやって来るということはないにせよ、キリストの弟子たちは今日もイエスと同様に活動している。「伝道」である。この6章でも、イエスが使徒たちを二人ずつ遣わしたことが示されている。

それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。 6:7また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして・・

と、ある。

むかしはよくモルモン教会の宣教者の若い男子が2名、自転車に乗って、そして特殊なヘルメットをかぶってやってきた。当方も学生時代にモルモン教会に通ったことがある。英語を学ぶのが主たる目的でキリスト教は二の次だった。それでもしばらく通っていたら、彼らの信者となるようにとの働きかけを受けた。モルモン教会誕生のいきさつを紙芝居にしたものを見ることになった。しかし、納得できないので信者になることはなかった。

ついでだから紙芝居の内容について記すが、それは次のようなものだ。ジョセフ・スミスという(モルモン教会の教祖となる)人物が、当時のアメリカの地域社会のなかで様々なキリスト教会同士が相争っていることを嘆いていた。そこにインディアンの姿をした天使が現れて、ジョセフ・スミスは「モルモン経(モルモン教の正典)」を与えられた。それがモルモン教の始まりだ、というのである。

当方は、その話を聞いて、さまざまな教会が相争っているところに「モルモン経」という正典を与えることによって、また新たな教派をつくるのは神様のご意志だろうか。ますます分裂が進むだけではないだろうか。もし神様がほんとうにいるのであれば新たな経典など与えるのではなく、聖書正典(66冊)に注意を向け、その理解の統一を図ることによって、平和と一致を生み出そうとするのではないかと論じて、モルモン教会を離れた。

たまたまイエスが使徒を「ふたりずつつかわす」ことからモルモン教について記すことになったが、いずれにせよ、食わず嫌いはいけない、先入観に囚われて判断することはいかがなものかというのが言いたかったわけである。そのように、聞くこともせずに退けるなら、自身にとって本当に大切な価値あるものを損失しているかもしれない、ということが言いたいわけである。

昨今は本当にヘンな宗教も多く、特に組織だったものほど集金集団になったりしている。キリスト教についてもニュース沙汰になっている。それで、初めから関わりたくないという気持ちは分かるが、何事も「ウワサ」に従ってではなく自分自身で確かめてみることは重要である。今日でも、本当のクリスチャンはイエスと同じく伝道活動に励んでいる。

もし彼ら・彼女たちがあなたの家の戸口をノックしたなら、話しだけは聞いてみて欲しい。その話しが聖書に基づいているか、道理にかなっているか、自分の耳で聞き、自分の目で見て判断して欲しいのである。せっかく自分の前に素晴らしい機会(将来の希望)が開かれてあるかもしれないのに、何も聞くことなく訪問者を退けてしまうのは、たいへんモッタイナイ話であると当方は思うのである。


またまた話が長くなってしまったが、郷里以外の人びとの反応はチガッタ。以下のようであった。

6:53彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。 6:54そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、 6:55その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。 6:56そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。

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マルコによる福音書 5章(「力」について) [マルコ]

ここでは「力」に注目したい。

「けがれた霊」悪霊(悪くなった天使)に取り憑かれた男がでてくる。男に憑いていたのは一人ではなく「軍団」であった。レギオンの意味は、たしか「軍団」である。大勢いたのである。日本にも「キツネ憑き」などと言われる事例がある。今日では精神疾患として取り扱われる分野であるが、ここでは現実に悪霊によってひき起こされたものとして記されている。

ここに出てくる男は驚異的な力を見せつける。

5:1こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 5:2それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 5:3この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 5:4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 5:5そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。

と、ある。

そんなことあり得ないと思う方もおられるだろう。だが、人間はそのくらいの力を出せるようである。フダンはそんな力は出せないが、「火事場のバカ力」というものがある。危急の場合、状況によってはフダン以上の力を出せるものらしい。というか普段は、筋肉が破損しないように「このあたりでヤメテおきましょう」と意識がストップをかけるのだという。そのストップがかからない状態が「火事場のバカ力」であるという。どこで読んだかは忘れてしまったが、麻薬使用時に警察に拘束され、かけられた手錠を引きちぎった事例を記憶している。であれば、この悪霊に憑かれた男もそのくらいのことはできたにちがいない。

もう一つの「力」はイエスから考える。

5:25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 5:26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 5:27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。 5:28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 5:29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 5:30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 5:31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 5:32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 5:33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 5:34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

イエスは「神の子」で特別な人間だから疲れるなどということは無かったろうと思うのは間違いである。上の引用によれば、イエスは「自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」た、とある。それも、女性が気づかれないように近づいて密かに「さわった」にも関わらず気づかれてしまった。その時、イエスから「力が出て行った」。いわば、力が抜けたということになる。力が抜ければ疲れる。仕事に多くの力を使えば疲れ果てることもあったろう。

要するに言いたいのは、イエスは人間であった、ということである。そして、たいへん繊細でもあったということである。

では、そのキリストとしての力、特に奇跡をおこなう力はどのように補充されたのだろうか。聖書(イザヤ書)によれば次のようにある。

40:28あなたは知らなかったか、 あなたは聞かなかったか。 主はとこしえの神、地の果の創造者であって、 弱ることなく、また疲れることなく、 その知恵ははかりがたい。 40:29弱った者には力を与え、 勢いのない者には強さを増し加えられる。 40:30年若い者も弱り、かつ疲れ、 壮年の者も疲れはてて倒れる。 40:31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、 わしのように翼をはって、のぼることができる。 走っても疲れることなく、 歩いても弱ることはない。

ここで、力を与えるのは「主」とあるが、聖書のヘブライ語原文にはここで神の固有名が用いられている。実際のところ、固有名が入らないとヘンである。

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マルコによる福音書 4章(「種まき人」のたとえ) [マルコ]

4:2イエスは譬(たとえ)で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、 4:3「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。 4:4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 4:5ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 4:6日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 4:7ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。 4:8ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。 4:9そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

ここで有名な「種まき人」のたとえが出てくる。

「種をまく」といっても、ばら撒くのである。ゴッホの絵に農夫が種をまいている絵がある。岩波書店のシンボルにもなっている。もっとも、あの絵はゴッホではなく、その元になっているミレーの絵かもしれない。ゴッホは、ミレーの模写として「種まき人」を描きはじめたと聞いているから、元をただせばミレーになる。そして、そのミレーのアタマにあったのはイエスの話したタトエということになるのだろう。そうであれば、つまるところ、イエスのたとえが大元である。






ここで描かれているのは普通の種まきではない。まさに、ばら撒くのである。土地に一定の間隔をもうけて丁寧に一粒ずつ種を植え付けるのではなく、ばらマク。バラバラッと撒く。

それゆえ、いろいろな所に種は落ちる。そのことをイエスは言っている。そして、落ちる場所によって、その種の成長が決まる。いい所に落ちたタネはよく成長するし、わるい場所に落ちたタネはうまく育たない。育たないどころか、芽生えることもなくダメになることもある。たとえによると、「鳥(サタン)が来て」食べられてしまう場合もあるから、ということになる。

このたとえは、つまるところ、どのように聞くかによって、その人の成長は決まるというタトエである。神の言葉をよく聞いて理解することにつとめるならば、その人は成長する。聞いても聞き流すだけなら、成長できない。たとえ聞いたとしても、その後で、聞いた神の言葉に従おうとするときに、その反対者(これは人間と超人間的存在が関係している)から受ける障害によって、それまで順調に成長しているかに見えていた人も「実:成果」を生み出す前にダメになってしまうこともある。

要するに、このたとえはクリスチャンの成長にまつわるたとえですな。基本は神の言葉を聞くところまでは一緒。あとはその聞いた人しだい。障害もあったりして、クリスチャンになるのもなかなかタイヘンなのであります。

ちなみに、英語で「ばら撒く」は broadcast (ブロードキャスト)。今日的意味でいくと「放送」。

神様はずっとイエス・キリストの弟子(クリスチャン)となる者を集めるためにクリスチャンを用いてこられた。すでにクリスチャンとなった者を用いて、タネをまいてきた。ブロードキャストしてきた。そして、それによってさらにクリスチャンが生み出されてきた。

その働きをラジオ放送にたとえるなら、聞こうとする人は周波数を合わせて、チューニングして、注意深く聞く必要がある。今日でも放送は行われている。聞くつもりがあれば、神様の言葉が放送されるのを聞くことができる。そして、聞いてしっかり自分の生活に神の言葉が根ざすように努めるなら、クリスチャンになることも不可能ではない。

ただし、インチキ、ウソ放送がある。クリスチャンと称するグループは(以下誇張的比喩表現だが)五万とある。要注意である。ダマされて、その教団の信者となってクリスチャンと称したとしても、神様からは受け入れてもらえない。次のようなイエスの言葉もある。

7:15にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 7:16あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 7:17そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 7:19良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 7:20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。マタイによる福音書 7章15~21節

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新世界訳聖書 マルコによる福音書 4章
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マルコによる福音書 3章(「安息日」に仕事/ イエスは「気が狂った」と・・) [マルコ]

3:1イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 3:2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 3:3すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 3:4人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 3:5イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 3:6パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

ここで「安息日」の問題が出てくる。安息日をめぐる争いは何度も繰り返される。安息日に仕事をしてはいけないという律法は「十戒」の一つであり、重要な決め事であったわけだが、次のように『出エジプト記』に出ている。

20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。 20:9六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

ここでいう「わざ」仕事が実際のところ何を指すかについて、当時の宗教指導者たちは細かい規定を設けていた。本来、神ご自身が意図していなかったことを「仕事」に含めて、安息日に「仕事」をする人を裁いていた。

今、このように書いていて、コロナ禍中の騒動を思いだした。警察でもナイのに警察であるかのようにふるまい、マスクをしていない人を問いただしたり命令したりしたという話を聞いている。最近では逆に、マスクをしていると近づいてきて「なんでしてるんだ」みたいなことを言う人も出てきているらしい。

もうだいぶ古い話になるが、校則を守っているかどうかを校門で見張る先生方のニュースがあった。遅刻を戒める意図で電動の校門を閉めたら生徒が挟まれて圧死したという話だったろうか。権威というものはとかく杓子定規に物事を取扱いはじめる。そうなるとロクなことはない。本来の意図、原則はなんであったかを思い起こせば、ふさわしい適用の仕方がわかるはずに思うのだが、自分の上司に認められることばかり考えたりするようになると、その顔色をうかがうばかりに、ただ命令にしたがえばいいというような物事の取扱いになる。いのちの尊さや示すべき優しさを忘れる。

だいぶ話しが長くなってしまった。失礼いたしました。

イエスは「安息日」に病人をいやすことは「仕事」ではナイと判断した。そもそもイエスは「神の子」である。そして神から遣わされて地上に来た。であれば、イエスは神を代表している。「安息日」の「わざ」仕事についても正しい理解をもっているはずである。ところが、神を代表し、スポークスマンでもあるイエスの言うことを宗教指導者たちは受け入れない。困ったものである。そして、彼らはイエスを殺そうと動き出す。バカげた話である。

イエスは多く誤解された。イエスを正しく理解しなかったのは宗教指導者ばかりではない。次のような記述もある。

3:21身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。 3:22また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、・・

イエスは「身内の者たち」から「気が狂った」と思われ、知的な面々から「ベルゼブルにとりつかれ」たと見做されている。ベルゼブルとは悪い霊者(元・天使たち)の親玉、つまり悪魔サタンのことである。

イエスの母親はマリアだが、マリアは他にも子供たちを生んでいる。後に聖書筆者になったヤコブやユダ(イスカリオテとは異なる人物)は弟たちである。だが、この時点ではイエスをキリストとして受け入れていないし「神の子」として信じてもいなかった。そればかりか「気が狂った」と見做していた。

もっとも考えてみれば、今までまじめな大工だった兄さんが、急に自分はキリスト「神の子」などと言い出し、家業を放り出して伝道など始めたなら、同族経営をしていた弟たちからすれば、それだけでもたいへん迷惑な話しである。実際のところ、弟たち「身内」がイエスを気が狂ったとみなした、その根拠について明記されてはいないが、まあそんなところであろうと同じような経験をしてきた者として思うのである。

この後母親のマリアもイエスのもとに来ている。マリアもイエスが神の子であることは認めていても、実際に信者となるのは後のことである。「預言者は郷里では受け入れられない」という言葉があるが、家族からもなかなか受け入れられない。これもまた、同じような経験をしてきた者として言えることである。

マタイ10章には次のようにある。イエスの言われたとおり、まさに、そのようになることになるのである。
10:24弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 10:25弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと(悪く)言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 10:26だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 10:27わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

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新世界訳聖書 マルコによる福音書 3章
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マルコ 2章(イエスの精神態度、イエスは「医者」) [マルコ]

マルコ2章は次のように始まる。

しかし,何日か後,イエスは再びカペルナウムに入り,家にいることが知れ渡った+。 2 そして,大勢の人が集まったため,戸口の辺りにも場所がなくなった。イエスは神の言葉を語り始めた+。

ここでイエスは「家」にいたとある。イエスはガリラヤ地方のカペルナウムを拠点として活動していたようである。ガリラヤ湖のそばにある都市だ。

以前イエス・キリストの生涯を描いた映画を見たことがあるが、いつも歩いているような映画だった。弟子たちを引き連れて常に歩いているのである。

そのイエスが「家にいる」目的は何だったのだろうと思う。もちろん、書かれていないので分からないのだが、ごく自然な考えからいくと、休息を得るためだったのかなと凡人である当方は思うのである。

そうであれば、なおさらであるが、休息を得ようとしているところに人々が押しかけてくる。どんな気持ちになるだろう? スターがハワイに出かけて休息を得ようとしたら、そこにファンが押しかけてという状況に似ているように思う。たぶん、ファンサービスの必要性を心得ていたとしても、あんまりイイ心持ちはしないだろう。

ところが、イエスについてのそういう記述はない。

人びとが集るや・・

イエスは神の言葉を語り始めた

と、ある。

この時、イエスのところに押しかけた人々は、病人を治してくれというのである。そのために、家を破壊する。屋根を壊す。たいへんなお客様であった。それでも、イエスが怒ったという記述はない。人々の願いにこたえて病人を治す。驚きである。

そして、その後、

13 イエスは再び湖の岸辺に出ていった。すると群衆が集まってきたので,教え始めた。

人がいれば教える。これがイエスの宣教の態度であったことがわかる。

当時、宗教指導者たちが蔑む「収税人や罪びと」と共にイエスは食事をした。その際にも、彼らに神の言葉を教えた。

そのことで非難されたときのイエスの言葉が、次である。

2:17イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

この章のはじめで、身体的な病気の人の罪をゆるす権威をイエスが持っていることが奇跡的な癒しによって証明された。そのイエスが、自分のことを「医者」にたとえている。

いわばイエスは、身体的な癒しも、精神的な癒しもおこない、人を健全にすることのできる「医者」であった。

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マルコによる福音書 1章 [マルコ]

聖書を読み始めたころ、当方が一番くり返し読んだのは「マルコによる福音書」である。第一に全体で16章までしかない。そしてテンポがいい。奇跡をおこないながらどんどん進んでいくイエスを思いみることができる。なによりも読みやすかったのが、その理由だ。

マルコは4人いる福音書筆者中、自分が直接に見聞きしたことではなく伝聞にもとづいて書いたといわれている。マルコはマタイと異なり、その福音書をイエスの家系やイエスの誕生から説き起こさない。ベツレヘムで馬小屋で生まれたことなどは全部すっ飛ばす。そして、キリストとしての誕生から始める。

人間イエスの誕生とキリスト・イエスの誕生とどちらが重要かといったなら、(人間としてマリアから生まれなければキリストとしての誕生もないのは事実だが、神の目的と人間の救いからいくと)キリストとしての誕生の方である。であるから、省略しても問題ナイと当方は思う。

そのようにマルコが考えたかどうか知らないが(きっと読者として想定されていた人たちが異なることも関係していただろう。ユダヤ人が読者として想定されていれば、キリストとしてのイエスの正統性を示すために家系も記す必要があっただろうが、そうしていないところをみると読者として想定されていたのはユダヤ人ではなかったということになるのだろう・・)バプテストのヨハネから水のバプテスマを受けてイエスがキリストとして活動を始めるところからマルコは書き始める。「マタイによる福音書」であればバプテストのヨハネは3章に登場し、悪魔からの誘惑は4章で記述される。それだけでも3、4倍のスピードである。

この章を読むたび当方は思うことがある。それはイエスはやはり普通ではナイということである。「神の子」であるのだからフツウでないのは当然なのだが、たとえば次のような記述がある。

1:35朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 1:36すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。 1:37そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。 1:38イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。 1:39そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追い出された。

シモンとは12使徒のひとりペテロのことだが、「みんなが、あなたを捜しています」と言われたなら、フツウどう答えるだろうか。たぶん「そうでしたか、探していましたか、ご心配かけました・・」がすぐに出てくる答えになるだろう。

ところが、イエスは

「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」

と、答えている。

祈りで神に近づき神のみ前で自分のキリストとしての役割を深く黙想していたところに、突然弟子たちが現れたのでこのような答えになったのだろう。

この言葉からイエスの役割、キリストとしての重要な仕事が何かを理解できる。

それは「宣教」である。イエスは、その仕事に熱心に取り組み、果たした。

イエスは、キリストとしてのこれからの3年半を宣教者として駆け抜ける。

口語訳聖書 マルコによる福音書
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新世界訳聖書 マルコによる福音書 1章
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マタイ28章(イエスは復活し弟子たちに命じる)

イエスは予告通り復活する。イエスを殺した宗教指導者たちは、イエスの復活の事実を隠蔽しようとする。

イエスはたしかに復活し、弟子たちに命じる。

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。 28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

イエスは弟子たちに「すべての国民を弟子」とするように命じる。

この時点でのイエスの弟子とおぼしき人々の数は100人もいなかったであろう。しかも、指導者は殺され、その追随者たちは指導者同様に当時の社会において異端扱いであった。その明らかな少数派への命令が「すべての国民を弟子」とするように、であった。

今、ここに100人グループがあるとする。その指導者が「自分たちは世界を制覇をする」などと言ったら、「アホかいな・・」ということになるだろう。

イエスも、そのような、いわばトンデモな命令をした、と言える。

ところが、それが実際のところ現実となっていく。今日でもイエスの弟子となるように働きかける人々はいる。そして、弟子となる人がいる。クリスチャンと称する人々である。

たしかにイエスと同じく神の立てる王国について、その王について宣べ伝え、教えている人たちがいる。間もなく世界は、神の立てる王国によって楽園となる。地球全体がそうなる、と彼らは教える。

彼らの活動とその世界的な成果は、イエスが目には見えないとはいえ、たしかに、その権威を行使していることを示すものとなっている。

あなたは、その人たちを識別しているだろうか?


口語訳聖書
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新世界訳聖書
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マタイ27章(「ユダヤ人の王」は死刑になる)

昨日の更新にひきつづきユダヤ歴ニサン14日の出来事。イエスはローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡される。ユダヤ人たちには、罪人を裁き死刑にする権限がなかった。それで総督に引き渡す。あくまでも殺すことを意図していたのだ。そして実際にそのようになる。予告されたとおりイエスは「過ぎ越し」の羊のように犠牲となる。

西暦前8世紀に記されたイザヤ書53章には次のような予言が記されている。イエスにそれは成就した。

53:4まことに彼はわれわれの病を負い、 われわれの悲しみをになった。 しかるに、われわれは思った、 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、 われわれに平安を与え、 その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。 53:6われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、 彼の上におかれた。 53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、 口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、 口を開かなかった。

以下、ピラトとイエスのやりとりが出ている。この章ではイエスが「ユダヤ人の王」であると認めたこと、罪状としてその点が記されたこと。嘲笑されたとはいえ「ユダヤ人の王」とされていたことが記される。

27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 27:12しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。 27:13するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 27:14しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。


27:27それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。 27:28そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、 27:29また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 27:30また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。 27:31こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。


27:35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 27:36そこにすわってイエスの番をしていた。 27:37そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。 27:38同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 27:39そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 27:40言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 27:41祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 27:42「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。


くり返しイエスは弟子たちに、自分は死んで3日後によみがえること、復活することを述べていた。そのことは宗教指導者らの耳にもしっかり入っていた。そのことが以下の記述からわかる

27:62あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、 27:63「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。 27:64ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。 27:65ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。 27:66そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。

口語訳聖書
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新世界訳聖書
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マタイ26章(「過ぎ越し」の日に)

イエスは人間として生まれたが、それ以前から命があった。

当該ブログをはじめて目にする方は「なんだそれ?」と思われるにちがいない。以下、愚かしいと感じる方もいらっしゃることと思うが、「聖書ではそのように言っているのだな」と、とりあえず読んでいただければ嬉しい。

イエスは、本来天使のひとり(ミカエル)であり、神はその命を天の領域から地上に移された。神は、処女マリアのからだ(胎)を借りて(科学の力によって生殖技術の進んだ今日であれば、受け入れがたいものではないと思うが)完全な罪のない人間として、イエスを生み出された。その後、イエスは大工ヨセフの息子として決して裕福ではない家族の長男として成長する。それはイエスにとって不完全で罪のもとに生きる人間の労苦というものを身近な人々をとおして経験する機会となる。

なぜ、今回このようなことから書き出したかというと、イエスが地上に来た(神から遣わされた)ことには目的があることを記したかったのだ。

それは、贖罪(ショクザイ)である。罪を贖(あがな)うことである。罪を帳消しにすることである。
そのためには犠牲が必要だった。アダムが失った完全で罪のない命に相当する値打ちのある犠牲が必要だった。その点で、不完全なアダムの血を直接受け継いでいない人間、完全で罪のない命をもつ人間が必要とされた。それで、神は天使のひとり(ミカエル)を地上に遣わす。マリアをとおして生まれイエスと名付けられた完全で罪のない人物は、みずからを犠牲とすることになる。そうすることで古代イスラエルに与えられた罪のゆるしを得るための律法(であって復讐を正当化するための言葉ではないのだが、誤ってそのように解釈されている)「目には目、歯には歯」「命には命」をまっとうすることになる。完全で罪のないアダムの命に相当するものを自ら備えることによってである。

エデンで罪をおかし(神に反逆し)た結果、アダムは死んだ。エデンにおいて神が与えた唯一の命令を守っていさえすれば永遠に死ぬことはなかった。それが死ぬようになった。罪を犯したことによってである。神が唯一ご自分の権限のもとに置かれた善悪を定める権利を、本来神だけがもつべき権利を自分のものとし奪い取ったからである。それ以降、人間は、自分勝手な善悪の基準を定めては、「自分(たち)は正しくあなた(たち)は間違っている」と互いに言い合い、争いあってきた。今日の世界情勢をみれば、エデンでの出来事を単なる神話であるとして笑うことなどできないはずだ。

アダムとエバは死んだが、神はアダムの子孫に憐れみを示された。生れてくることを許されたのである。不完全で、受け継いだ罪のゆえに死ぬ定めのもとにはあるものの、生まれて人生を楽しむ機会を与えられた。

そして、将来、再び楽園となる地球で永遠に生きる機会を得ることができるように、アダムの子孫たちのために、神は物事を取り決められた。エデンでの反逆の直後に、神は将来人類を罪と死から解放するキリストの到来について予告された(創世記3:15)。その後、神はひとりの人物に目を留め、その人物をとおしてキリストが生み出されるようにされた。その人物とはアブラハムである。しかし、その役割を確かなものとするためにアブラハムは試される必要があった。

聖書中には、神とキリストとの関係を想起させる出来事がしめされている。それはアブラハムと息子イサクとの関係だ。神はアブラハムに、ひとり息子で家督相続人であるイサクを殺すように命じる。これは試練だったはずである。しかし、アブラハムは、従おうとする。たとえ死んだとしても、自分の子イサクをとおしてキリストを誕生させると既に神は約束している以上、たとえイサクを殺したとしても復活させてくださるにちがいないという信仰から、殺そうとする。そこで「待った」が入る。テスト合格である。十分に信仰をしめしたことで、将来人類全体を救う救世主が確かにアブラハムの家系からでることが神によって誓われる。そしてそれは、将来、神ご自身が、自分の独り子イエスを犠牲とし、そして復活させることを事前に示すための型となった。

そしてもう一つ意に留めたいことがある。本日考慮するマタイ26章と直接からんでくる。アブラハム の孫(ヤコブ=イスラエル)の代に、イスラエル民族は飢饉のためにエジプトに居住するようになる。最初ファラオから厚遇されていたが、後に人口が増えて厄介者あつかいになる。そして客分から奴隷としての扱いに変わる。そのの窮状から救うべくモーセが指導者として神により用いられることになる。そしてモーセはファラオと交渉し、エジプトからイスラエルを脱出させるべく尽力する。ところがファラオはそれを許さない。それで、神はやむなく災いをくだすことになる。映画『十戒』をご覧になった方など、ご存知の方にはご存知の展開である。

その10番目の災いとの関連で、神がアダムの子孫を罪から救うに際し、イエスを犠牲とすることを事前に示す型となった出来事がある。やっとこれで、本日のマタイ26章について説明する段取りができた。

「過越」(すぎこし)というものがある。モーセの時代の話に戻る。エジプトからご自分の民イスラエルを救出するに際して、頑ななファラオに災いをくだす必要が生じた。その10番目の災いはエジプトに住むすべて家族の長男を殺すというものだった。事前に神は、救われるための方法を示す。それは羊を殺してその血を家の戸柱(門柱)とその上にある横木に塗ること(神社にある鳥居のような感じになると当方は想像する)。そうすれば神はそれを見て、その家を「過ぎ越し」、その家の長男の命を保護するというものだった。エジプトのファラオをはじめ多くはそれに従わなかったために長子を失うが、従った人々の家の子どもは保護された。そのことは出エジプト記12章に記されている。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwt/2/12#study=discover

その羊の犠牲に相当するのがイエスであり、その流した血は救いのための手立てとなった。

というわけで、

26:20夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。

有名な最後の晩餐である。「過ぎ越し」を思い起こすための行事として食事がなされる。(裏切り者ユダ・イスカリオテを去らせたあと、より深い意味をもつ食事がなされるが、ここでは触れない)。

この夕方(日没)から、イエスにとって特別な一日が始まる。ユダヤ歴のニサン14日である。ユダヤ歴の一日は夕方から始まって夕方で終わる。この日はイエスにとってたいへんな一日となる。イエスの一番ながい日といえる。この日(今日の暦にしたがうなら「翌日」になってからだが)にイエスは刑柱上で殺され犠牲となることで、予言的な劇として示されてきた過ぎ越しの羊の役割を果たし、その流した血をもってアダムの失った完全な命に相当する代価を手にする。

大いなるアブラハムである神は、わが子イエスを、アダムの子孫すべてにとっての身代わりとなる犠牲とする。イエスはアブラハムの子であるイサクの役回りを果たす。そしてまた、イエスは進んで過ぎ越しの犠牲の羊の役割を果たし、その流した血はアダムの子孫すべての罪を贖う代価となる。

だいぶくどくどしい話になったが、この章は、そうした流れのなかにある。

口語訳聖書
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新世界訳聖書
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/26#study=discover





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