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マタイ11章(キリストを識別するのは各自の責任・・)

この時点でバプテストのヨハネは投獄されている。その獄中からヨハネは弟子をイエスのもとに遣わす。イエスが(聖書中にその到来を予告されていた救世主)キリストであるかどうかを本人の口からききたかったようである。すこし気弱になっていたのだろうか。確証を得たかったのかもしれない。

それに対してイエスは「わたしこそキリストです」と言わナイ。そういう仕方で返答しない。福音書全体を通して、イエスが直接、自分がキリストであることを明確に述べた事例はきわめて少ない。それは人々が、世間のウワサなどではなく、自分の目でイエスの活動を見、自分の耳でイエスの教えを聞き、そして自分の思考力を働かせて、自分自身で判断しキリストであると結論をだして欲しかったからのようである。

イエスがヨハネの弟子たちに示した返答は、聖書のなか(イザヤ書35章)でキリストの活動について予告していた部分を引用したものだった。次のようなものである。

「 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」

盲人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになる、というイザヤ書の楽園の回復に関する予言である。イエスはそれを文字通りにおこない、また比ゆ的な意味でも(いわゆる「文盲」が聖書を理解できるよう助けることを)行うことによって、その予言を成就させていた。

そしてイエスは、次のように言う。

行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。

当時の人々の多くは、イエスの活動を見、教えを聞いても良い反応をしなかった。「笛吹けども踊らず」である。まさに、その言葉はマタイのこの部分が出典になっているという。人々はイエスが熱心に笛を吹いても、踊らないばかりか、踊らないで済む理由をさがし出しては、弟子になることを拒否した。自ら意図的に盲人になり、耳の聞こえない者となったのである。

しかし、良い反応をする人たちもいる。それは今日でも同じである。そして、イエスはそれら好意的な反応を示す人たちについて神に感謝して言う。

11:25そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 11:26父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。 11:27すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

神の目的(つまり聖書を)を理解してクリスチャンとしてイエスの生き方に倣えるかどうかは知性が高ければいいというものではない。知性よりも徳性の方が重要になる。イエスと同じように天国だの楽園だのという(一見)愚かしく思える(聞こえる)ことを、他の人に伝えることは「幼な子」のように謙遜でないとできない。イエスの弟子になる人に求められるのはなによりも謙遜さである。知性が高い人にありがちな高慢さは、イエスのような生き方を退けるものとなる。実際のところ、イエスのように謙遜で自己犠牲の精神がないと、神とその目的のために辱められることに甘んじることはできない。当然ながら、クリスチャンにはなれない。なぜなら、昨日も記したように「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」からである。 それがどの程度に及ぶかはキリストの身に生じたことから理解できる。イエスはすべてにおいて非のうちどころのない人物であったが、当時の人々の多くから嘲られ、ついには偽証に基づく裁判によって、処刑されたのである。「神の子」であり罪のない人がである。その弟子たちも、主人がそうであったのであれば、同様の覚悟をする必要がある。どうあっても謙遜であり、自己犠牲の精神が必要になる。

それでも、イエスと共に「くびき」を担い。その弟子となることはさわやかな経験となる。悪魔サタンの支配下において「くびき」を担い、その奴隷のような生き方を強いられることと比べるなら、その荷はきわめて軽い。

口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

新世界訳聖書
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/11#study=discover